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(平成10年6月13日初掲、同年8月17日増補改訂、平成14年1月7日増補改訂)
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陸軍中将 佐藤 賢了 (さとう・けんりょう) 陸士29期。航空兵科出身。功3級。石川県出身。自作農佐藤教信の次男。 御子息の佐藤肇氏は陸士56期、陸軍大尉、陸上自衛隊陸将補 |
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| 大正 6年 5月25日 | 陸軍士官学校卒業 |
| 大正 6年12月25日 | 陸軍砲兵少尉任官。野砲兵第1連隊附 |
| 大正 9年11月 | 陸軍砲工学校(高)卒業 |
| 大正10年 4月 | 陸軍砲兵中尉 |
| 大正14年11月 | 陸軍大学校第37期卒業 |
| 大正15年 3月 | 陸軍砲兵大尉 |
| 大正15年12月 | 陸軍省整備局附勤務(統制課) |
| 昭和 3年 3月 | 陸軍省整備局課員 |
| 昭和 5年 5月 | 米国駐在(米陸軍第十二野戦砲兵連隊附)(大尉) |
| 昭和 7年 7月 | 帰国 |
| 昭和 7年 8月 | 陸軍砲兵少佐。野戦重砲兵第八連隊大隊長 |
| 昭和 8年 8月 | 陸軍省整備局課員(統制課) |
| 昭和10年 8月 1日 | 陸軍大学校教官 |
| 昭和11年 8月 1日 | 陸軍省軍務局軍務課国内班長 |
| 昭和12年 3月 | 陸軍砲兵中佐 |
| 昭和12年 8月 | 陸軍航空兵中佐 |
| 昭和13年 3月 3日 | 帝国議会「黙れ事件」 |
| 昭和13年 7月15日 | 陸軍航空兵大佐、陸軍省新聞班長兼大本営報道部長 |
| 昭和13年12月10日 | 浜松飛行学校教官 |
| 昭和14年 3月 9日 | 第二十一軍参謀副長 |
| 昭和15年 2月10日 | 南支方面軍参謀副長 |
| 昭和16年 3月 1日 | 陸軍省軍務局軍務課長 |
| 昭和16年10月15日 | 陸軍少将 |
| 昭和17年 4月20日 | 陸軍省軍務局長 |
| 昭和19年12月14日 | 支那派遣軍総参謀副長 |
| 昭和20年 3月 1日 | 陸軍中将 |
| 昭和20年 4月 7日 | 第三十七師団長(在バンコク) |
| 昭和21年 4月26日 | 「A級戦犯」指名 |
| 昭和21年 5月31日 | 予備 |
| 昭和23年11月 | 終身刑宣告 |
| 昭和31年 3月31日 | 巣鴨プリズン仮出所 |
| 昭和31年10月 | 東急管財社長 |
| 昭和47年 2月 | 東急管財退職 |
| 昭和50年 2月 6日 | 逝去(享年81才) |
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帝国議会「黙れ事件」とは? |
| 佐藤中将は、戦後の”極東軍事裁判”で「A級戦犯」になったことで有名であるが、それともう一つ、帝国議会での「黙れ事件」でも有名な人物である。 昭和11年(1936年)8月1日から陸軍省軍務局軍務課国内班長となった佐藤賢了少佐(当時)は、国家総動員を担当し、「国家総動員法」の策定をしていた。「国家総動員法」は、国家の経済と国民の生活を政府の統制下におくという内容で、本来個別に議会で審議して法律によって規定すべき国民の権利・義務の制限を一括して政府に委任するという全権委任法であった。 昭和13年(1938年)2月24日、遂に法案が衆議院に提出された。帝国議会の権能を政府に白紙委任するという法案であったので、当然多くの議員から反対論が続出した。3月3日の午後、板野議員が、「この法案は若い軍人達や官僚達の起案したもので政府諸侯はわかっていないから、誰でも良いからわかっている人が説明してくれ。」と言った。これに対して佐藤中佐(当時)が法案の説明に立ったが、説明を始めて30分くらい経った頃、宮脇長吉議員が「委員長!この説明員にどこまで発言を許すのか。」と発言した。一時審議は止まったが再び再開された。すると、宮脇議員が立ち上がってヤジを飛ばしたので、佐藤中佐は「黙れっ!」と怒鳴りつけた。委員会は混乱し、休憩となった。その後佐藤中佐は杉山陸軍大臣に叱られ、登院を自粛するようになったが、法案自体はこの事件以降順調に審議が進み成立した。このため、「黙れ事件」は、「陸軍が議会を威圧した」という象徴的解釈をされるようになった。 終戦後、佐藤中将は連合国によって「A級戦犯」に指名されたが、これには「黙れ事件」が大きく影響していると言われる。 |
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